なぜフランスではいい訳はすればするほど感じがいいのか?
フランスではいい訳はすればするほど感じがいい。それを僕は経験的に学んだが、そのことをフランス人が非常に判りやすいことばで、しかも日本語で書いている本を発見しました。
『日本語の森を歩いて—フランス語から見た日本語学』フランス・ドルヌ+小林康夫/著

昔フランス語を覚えようとしていた頃、作文で日本の夏の風情を描写しようとして「日陰のいちばん奥を一筋の涼風が微かに流れる」と書き、日陰の奥、ということばの意味が判らない、とフランス人にいわれた。この話を長くパリに住んでいる日本の方にしたところ、それについてはここに書かれている、と紹介して下さったのがこの本(第1章「奥の方へ進んでください」のあたり。フランス・ドルヌ, 小林康夫,『日本語の森を歩いて—フランス語から見た日本語学』, 講談社, 2005, coll., 講談社現代新書)。
まず、これは日本語についての本なので、全ての日本人、日本語話者に興味深い内容だ。またフランス語には興味がなくても、ことばとして英語に興味のある人にはいろいろ参考になる本だと思う。
たとえば英語で、どうして「in the street」なのに、それが「road」になると「on the road」となるのか、などというちょっとしたことだけど意外と見過ごしていそうなこともなるほどなぁ、と考えさせられる。(これはフランス語でも、「dans la rue」, 「sur la route」となる。Ibid., p. 26-27.)
イントロダクション(「発話からはじめて…」)では本書の基礎となるアントワーヌ・キュリオリの発話操作理論について触れられていて(まずはじめにどういう方法論を使って立論していくのか、つまりmethodologieを明確に宣言する、というのはフランスの論理的な文章のイロハのイの字である。どういう方法論を採るのかが明確でなければ方法論的に脆弱な議論だということになる。つまり方法論的な検証を許容しない、ということは、その分客観的ではないからだ。これはたいへん重要な点で、日本の国語教育ではまったく触れられもしないが、フランスではこれを高校以来徹底的にたたき込まれる。博士課程まで上がってくるような人たちにとっては、だから方法論の宣言はほとんど反射的だし、しないとむしろいごこちが悪いだろう。日本人にとっては煩瑣な前置きのようだが、それがなければ文章自体の議論も、批判者との議論もその分混乱することになる。これは方法論の明示によって避けることのできる混乱だ)この発話操作理論というのはたいへん興味深いが、相当複雑で繊細で、本書のこのイントロダクションにある程度の説明では当然判った気にはなれないのだが、そういうやや難解な印象を与えるのはそこだけで、本文は極めて親しみ易い。
上に挙げた三点の他に、全体のレジュメではなくて、僕にとってとくに関心のあるぶぶんを引用してみる。
こうして「た」形のさまざまな用法を検討したことで、「過去」とか「完了」という説明だけではうまくいかない理由が明らかになったと思います。それと同時に、「過去」も「完了」も、出来事が現実化されて「肯定/否定」の一方の可能性だけが実現し、他が排除されたことを意味するわけですから、逆に「過去」や「完了」という意味で「た」が使われる理由もはっきりしたと思います。「た」は、小説に頻繁に使われますが、それは、過去に起きたことに似せて虚構の出来事を語っているというよりは、もっと積極的に、そこで語られている出来事が小説という「枠」のなかでは「事実」であり、それ以外の可能性は排除されていることを示す根本的な機能の現れだと考えるべきです。(Ibid., p. 169。強調は僕)
…ここに書かれていることはあるいはごく微妙なことのように見えるかもしれないが、非常に考えさせられるところがある。日本文学に関心のある人なら、「き」と「けり」をめぐる有名な問題にふたたび思いをいたすかもしれない。よくいわれるとおり終助詞の基調が「き」から「けり」に変わるのが物語文学の成立に照応しているとすれば、この現代の日本語による小説に頻繁だと著者のいう「た」の機能は、「き」「けり」それぞれの機能と比較してどういう位置にあり、比較においてどういう性格を現代の日本語の小説にもたらしているのか。はたして「小説」は、一般に思われているほど「物語」と異なったものなのだろうか。であるなら「物語」は「小説」の一ジャンルなのか、それともその逆なのか。あるいはジャンルなどではないのか。そもそも日本語でいう「物語」とは普遍的な概念なのか。客観的に定義づけることができるのか…。さまざまな論点が浮かんで来る。
また、同様に次の部分も、僕がいま(否応なしに・笑)興味を持っているナラション理論の「ノン・コミュニケーション理論」とも関係してくるところだ。
日本語を研究する言語学者によく知られている問題のひとつに、感覚や感情表現が形容詞そのままの形では三人称で言えないという問題があります。
1 ×浩子は寒い。
2 ×浩子は痛い。
は言えず、同じ意味内容を伝えるには、
3 浩子は寒がっている。
4 浩子は痛いのだ。
と「がる」や「のだ」などをつけていわなければならないというものです。
この現象は、一般的には、他者の感覚・感情は経験できずわからないので、断定の対象になりえない、といういささか哲学的な他者問題に関するテーゼで説明されることが多いようです。もっともなようですが、欧米語には、このような制約はありません。フランス語では、形容詞そのままではなく「avoir+形容詞」や「avoir+名詞」という形になりますが、
5 Hiroko a froid.(浩子は寒い)
6 Hiroko a mal.(浩子は痛い)
ということに問題はありません。
日本語では他者の感覚はわからないが、フランス語になると他者の感覚はわかるというわけでしょうか。フランス語で5、6が言えるからといって、フランス人には浩子の寒いという感覚がそのまま経験できている、というわけではないでしょう。逆に言えば、日本語で1、2が不可になる理由も、ただ哲学的な他者問題で片づけてしまうわけにはいかないでしょう。そこには、まだ言語学的に考えてみるべき問題があるように思われます。(Ibid., p. 184-189. 強調は著者。)
…この第三者の主観を三人称で直接的に(つまりmodaliserせずに)伝えることが日本語の会話では不可であるのに、日本語の小説においては可である、というのが、自由間接話法に関するチョムスキー理論を基礎とした考察と並んで、ノン・コミュニケイション理論が従来のナラトロジーを特殊なナラション理論、つまりコミュニケイション理論である、として斥ける大きな根拠のふたつのうちのひとつとなっている。…もちろんこれは、フランス人には説得的でも、日本語母語話者としてはやや無理のある「根拠」である(だから僕は苦しんでるのですよ!・笑)
おもわずmodaliserということばを使ったが、言語でmodeというのは法のこと、フランス語だったら直説法や接続法、命令法といったものがあり、そこまでは判るがこれをmodaliserと動詞にしたりmodalisationとさらに名詞化したりすると、僕もフランス語の論文ではふつうに使っていながらも、日本語でいうと、さてどうなのだろう、というところがちょっとあった。それもこの本に非常に簡明な説明があった。
[…] 否定とは、発話者がその言表の述定関係に対してそれを否定する、つまりそれが真あるいは事実ではないと判断していることを意味しています。言語学では、このような述定関係に対する発話者の態度の表現を、一般的にモダリティーと呼んでいます。肯定の場合も否定の場合も、発話者はみずからその述定関係の真偽を判断して断定していますが、みずからは判断せずに共発話者に判断するように要求する場合もあります。これが疑問です。以上の肯定・否定・疑問は発話のモダリティー、しかももっとも根本的なモダリティーですが、さらには確実性・非確実性、あるいは可能性・不可能性、評価や義務、願望などさまざまな発話者の態度が問題になります。アスペクトとモダリティーはいわば言表を分析する場合の両翼であるといっても過言ではありません。(Ibid., p. 147-148.)
モダリティーの意味が判れば、modaliserやmodalisationの意味も自ずと判るだろう。「言表」はenonceの訳で(Ibid., p. 16)アスペクトは、言語や外国語をやっていると常に問題になってくるものだが、ついでに引用しておくと、本書によれば:
アスペクトとは、述語が提示するプロセスの内的な時間的展開にかかわる位相(アスペクト)のことです。言語を使って語るときに、われわれはただあるプロセスがある、と言うだけではなく、もっとこまやかにそのプロセスのさまざまな瞬間の位相を問題にしながら語っています。たとえば「読む」というひとつのプロセスにしても、「読み始める」「読み続ける」「読み終える」などその展開のいろいろな位相に焦点をあてることができますし、ある特定の瞬間の位相を取り上げることもできます。(Ibid., p. 126)
なお「共発話者」については「どんな言表も発話状況の中に位置づけられます。発話状況は、発話時のほかに、かならず発話者、そしてその発話の聞き手のポストにある共発話者を前提しています(共発話者は、経験的な次元では、対話者ということになりますが、ここでは論理的なモーメントです。しかしここではこの錯綜した理論には立ち入りません)。」とのこと(笑、Ibid., p. 101-102.)。
ほかにも日本人や日本語話者にとって非常に興味深いところはいろいろあるが(たとえば第14章「いたっ」〜「述定関係が現れない次元」、「発話と言述」、Ibid., p. 188-195, etc., etc.)最後に、この項のタイトルにひいた、フランス人のいい訳好きについて言及しているぶぶんを紹介しておこう:フランス人はいい訳好きである。たとえば遅刻をした時、謝る代わりに、いい訳をする。しかもいい訳は、すればするほど感じがいいらしい。いうまでもなく、これはなかなか日本人の感覚では理解しがたいのだが(笑)このことを僕は経験的に学んだ。それが本書には明確に説明されている。
日本の社会では「自分の気持ちを明快に伝えるのが望ましい」というのは、おかしい、違っていると思われるかもしれませんが、じつは社会習慣としてはっきり存在しています。日本人の子どもは小さいときから、悪いことをしたときは「ごめんなさい」とちゃんと言う習慣を身につけさせられています。[…]
フランス語には、お詫びを表現するのに「pardon」「excusez-moi」「je suis desole」という言い方などがあり、かなりの悪さをしたときにははっきりと「pardon」といわせますが、普通は子どもには、そういう言葉があまり期待されません。その代わりに理由をはっきり言うことが求められます。たとえば、大人が遅刻すれば、「excusez-moi」、あるいは「je suis desole」と普通に言いますが、子どもは学校に遅刻しても、そういうお詫びの言葉ではなく、遅刻した理由をはっきりと言わなければ、許されません。言うまでもなく、大人も「excusez-moi」の後にそうなった理由を付け加えなければ、いい加減な人だと思われます。
日本の社会では、理由を付け加えたら、むしろくどくど言い訳していると解釈されて、かえって評価が悪くなるでしょう。言い訳するよりは、潔く過ちを認めてお詫びしたほうがよいことになっています。なんで「すみません」ですむのか、フランス人にはある意味で不思議ですが、その言葉を通してその人の気持ちが伝わっていることにおいて日本人は納得するのだと思います。(Ibid., p. 214.)
…どうであろう。《うーむ…》という感じである(笑)この部分が含まれた、第15章「おあとがよろしいようで」〜「「気持ち」をいう日本語、「理由」をいうフランス語」、「言わないことで気持ちを伝える」、「言葉にできる気持ちとできない気持ちが共存」、このあたりも非常に面白いのではないだろうか(Ibid., p. 213-218.)。
ここではとくに僕が興味を持った部分だけを紹介したので、おおくの読者にはさらに面白いことがもっともっと載っているはずだ。また引用は、結論的な部分を中心としたのでややテオリックな印象も与えるかもしれないが、本文では日本語の日常会話の具体例が非常に豊富に引用されており、理屈っぽい部分はむしろ少ない(イントロダクションをべつにして)。たとえば電車でちょっとひと駅、というような時間に気楽に読めるような、極めて親しみやすい、楽しい本だ。ほんとにいい本だと思うので、ちょっとでも面白そうだ、と思った方は、ぜひぜひ;)
『日本語の森を歩いて—フランス語から見た日本語学』
フランス・ドルヌ+小林康夫/著
平中悠一 特別寄稿:「パリより:セ・パ・グラーヴ」も読む。