文章を客観的に読むということ〜所謂『著者の意図』と表現された意図〜テクスト論
現在翻訳終了中のパトリック・モディアノ著『失われた時のカフェで』の冒頭を、僕はとりあえずこう訳してみた。
カフェのふたつの入口の狭いほう、陰の扉と呼ばれていたほうから、いつも彼女は入ってきた。
。。。どうだろう。
原文の「ミステリアス」な雰囲気が伝わるだろうか。というのも、原文はこうだからだ。
Des deux entrées du café, elle empruntait toujours la plus étroite, celle qu’on appelait la porte de l’ombre.
一見なんということのない文章だが、フランス語を真面目に勉強した人なら、すぐに「ややや、うーん、これは。。。」と思うのではないだろうか。訳せ、といわれたら、ちょっと頭をひねるかもしれない。
なぜなら、僕は素直に「陰の扉」と訳したが(笑)la porte de l’ombreといういい方は、どうだろう。ふつうフランス人は日常しないのではないか。日陰に位置する扉、という意味なら、la porte à l’ombreといいそうなものである。はたしてla porte de l’ombreとはなんなのか。。。小さなことだが、それだけでもちょっと心に引っかかり、読み出したくなる出だしだしだろう。同時に賢明な人であれば「君子危うきに近寄らず」式に、この作品の翻訳をするのはちょっと考えものだ、と思うかもしれない(笑)
さて、ではla porte de l’ombreというこの少し耳慣れないことばで、著者は一体なにを意味しようとしていたのか。つまり著者の意図はなんなのか。これは、著者に訊いてみないと判らない。しかし訊いてみなくとも、テクストから客観的にいえることは、著者が通常とは少し違ったいいまわしをしている、ということである。少し違ったいいまわしだ、なんだろう、という印象を読者が受けることを、著者は少なくとも許容している。これを仮に、表現された意図、と呼ぶことにする。これは、客観的に理解でき、客観的に議論することのできる「意図」である。そして僕はもしこのレヴェルまでの翻訳ができたらなら、それで十分ではないか、いやむしろ、それ以上の翻訳をしてしまう、というのはどうなのか、という立場をとっている。
訳文には、原文ほどのミステリアスさは残念ながら表現されていないかもしれない。しかし日本語の感度の優れている人だったら、ちょっと頭の中で「陰の扉」と、書かれていない「」を補いながら読んで貰えるのではないだろうか。なぜか、という我田引水の自画自賛はとりあえずここでは控えよう(笑)しかしともかく、この日本語の、ことばの「感度」または「感受性」というものは、主観的な心の感受性の豊かさ、というよりも、まず、じつはもっと理性的な「文章を客観的に読む能力、または技術」に依存している、支えられている、と僕は考えている。
感じるには、方法がある。感じ方、というものがある。それは技術だ。ただ「感じろ、感じろ」といわれ、どうやって感じたらいいのかは教えられないとしたら、それはある種の拷問に近い。念力で感じろ、というのか。気合いなのか、根性なのか。はたまた精神力なのか。そんなことは、無理である。
*
日本の国語教育では、往々にして文章には表現されていない所謂『著者の意図』を考えることが求められる。想像力を使え、などといわれる場合さえある。想像力を使って考えたことには客観的でない読者の主観的な判断が含まれうるし、そこで考えるよう求められている『著者の意図』とは未だ表現されていない著者の主観である。当然どちらも、客観的に議論できることではない。
ではどうしてこういうことが日本の国語教育で行われているか、といえば、それは国語教育と、「表現されていない(場合によっては隠蔽しようとしている)他者の主観を、想像力によって思いやる」という日本の社会では特徴的にあらまほしきものとされている能力、メンタリティの育成、つまり日本人になるための教育とが渾然一体となっているためだろう。国語教育というのは、どの国においてもおそらくある程度以上こういう面、つまり国民教育としての面を持っている。だからそれが一概に悪い、とはいえない。しかしその結果、日本では、文章の読解とは所詮主観的なものでしかない、という日本に固有の特殊な『常識』が植え付けられつづけてきた。これは少なくとも、ヨーロッパ人にとってはぎょっとさせられるような『常識』だろう。。。
文章とは、あるレヴェルにおいては、考えや意図を(さらには「主観」をも・笑)客観的に表現するためのものであり、もちろん客観的に読むことのできるものである。そうでなければ、その意味において文章の意味はないだろう。
先の例で挙げた「表現された意図」、ここまでは、当然客観的に理解もでき、客観的に議論もできるのである。
もちろんそこに書かれていない『著者の意図』のほうが、つまり所謂『本音』(というのも明らかにおかしな、そして妙な混濁だが、まぁよくありそうな混濁なので。。。『本音』とは、表現されていないところにこそあるものだ、という先入主に基づく・笑)の方がより重要だ、という議論はできるだろう。
しかし、テクスト論、テキスト・クリティークにおいては、そのレヴェルの議論はできない。というか、やってはならない。目のまえにあるテクストから客観的に読むことができ、客観的に議論できること以外について考えることは主観的な作業であり、それはもはやただのテクストの読解・分析ではないからだ。
客観的なテクスト分析の積み重ねの上に、ある種の解釈、つまりinterprétationが行われることは、当然のことで、必要なことでもあるのだが、この解釈が客観的である(つまり客観的な議論の対象になるということ)ためには、その前の客観的な議論が、いかに堅固に十分に積み重ねられているか、ということが問題になる。
あるいは日本の国語教育、思いやる心の教育に、まぁ、いわば「洗脳」されている僕たちは、それではちっとも文学の深いことは判らないのではないか、と思うかもしれない。しかしテクスト論はテクスト論のレヴェルで、じつは相当豊かな世界がある。そしてテクスト論というのは、テクストからいえることはなんだっていってもいい、というようなでたらめなものではまったくない。厳格なルールに基づいて行われる、非常に客観的な方法論だ。日本で、多く「テクスト論の影響」で生まれたと捉えられている議論は、これもたいていが、ヨーロッパ人から見るとぎょっとするような議論ではないか、と思う。(客観的に文章に表現されていることは無視できないし、著者の意図であるかないかにかかわらず、客観的に文章に表現されていないことを議論することは当然できないのだ。)
さらに、では、その上で、テクストに書かれても表現されてもいない『著者の意図』を研究したい場合はどうすればいいのか。想像力を使う代わりに、直接著者に訊きにいけばいいのである(笑)何月何日に著者にこう聞いた、という証言があれば、それは客観的な考察の対象になる。あるいは著者がその件について書いていれば、もちろんこれも客観的だ。エッセイだけでなく、手紙や日記もある。つまり、伝記研究とパラテクストの研究、という方法がある。
そこにも客観的な素材がないが、どうしてもそこを研究したい、となったら、どうすればいいか。社会学や歴史学、文化人類学や、精神分析、そして哲学。そういうさまざまなアプローチがある。もちろんどれもみんな、客観的な方法論だ。それらの客観的なアプローチのうちのどれがいちばん目的に叶うのか。そして、その方法論を技術としてまず身につける必要があるだろう。。。
ある文学作品を読んで「これはいい!これは好きだ、大好きだ!」と思う心。これはもちろん主観であり、その主観的なモーメントこそが文学を支えるいちばん大きなものだろう。しかし文章を読む、というこの作業、このレヴェルは、あくまで客観的なものである。より大きな客観的な力が、より深く、より強い主観を支えるのだ、ということはおそらく議論の余地がない。
とりあえずこの項では、所謂『著者の意図』と僕のいう客観的な『表現された意図』の腑分け、そして文章を読む、ということは(そしてもちろん文章を書くということも)客観的な作業である、という僕の立場、この二点だけを明快にし、擱筆、としたい。
*平中悠一訳『失われた時のカフェで』2011年 2月 刊行予定。
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